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バンクシアの響き

時代が急展開している今、
人間社会の新旧交代にまつわる出来事の本質をトータルヘルスデザイン 近藤洋一が考察します。

8月 元気の力

マゼランが初めてフェゴ島にやってきた時、島の人たちは湾に停泊している船団の姿に気がつかなかったと伝えられています。沖に大型船が停泊しているにもかかわらず、何故彼らにはその姿を認識することができなかったのでしょうか?私たちの常識を見直す必要のあるテーマといえそうです。

原始の環境で暮らしていた島の人たちは、かつてそのような大型船を見たことがなかったので、意識にあがることもなかったからだという見方があります。意識に上がらないものは見ることはできないというのです。
  人は、無数に存在する刺激の中から「意味」のあるものを選び出す“濾過膜のような働きをする知覚”にもとづいて行動をすると考えられています。

別の言い方をすれば、自分の意識の中にある設計図に含まれるものだけを見ているに過ぎず、まったく未知の物は見ていないということになります。
  当時のフェゴ島の人たちが現実であると認識できるものは、彼らの文化や歴史、神話などによって決まっていて、その枠組みから外れるものは視界に入らないということだとすると、科学万能の現代に生きる私たちはどうなのでしょうか?

私たちが見ている現実はどうなっているのか気になるところです。
私たちが色を見たり、音を聞いたり、匂いをかいだ時に感じるのは、色や音、匂いそのものではなく、神経によって脳に伝えられる電気的パルスです。何かを見たときに、それが“みどり”に見えるのは、外界に“みどり”という色が存在するのではなく、ある周波数の波が脳に伝えられて、脳内で“みどり”という色をつくり上げているということなのです。

色や音、匂いは外部の世界にあるのではなく、人間の内部にあるのだとしたら、“形”についても同じことが言えることになります。暗くなりかけた夕暮れ時に、車の中にいる人の顔かたちが薄ぼんやりとしか見えていないにもかかわらず、その人だと気づくことがありますが、これは何を見ているのでしょうか?

何十人という多くの人の中から一人の親しい人をとっさに見つけ出すことができますし、後ろ姿だけでも瞬時にその人だと認識できることがあるものですが、考えてみると、これも不思議なことだといわざるを得ません。

見れども見えず

数年前に、「神々の指紋」で知られるジャーナリストのグラハム・ハンコックさんが来日された時、富士山のふもとにある遺跡や古文書を見てもらおうと思い山梨県を訪問しました。
快晴でくっきりそびえる富士山を間近に見ることができる素晴らしいところでした。
日本一の霊峰・富士の雄姿にすっかり感激して、私たちを案内してくれた地元の人に「毎日美しい富士山を見ることができて幸せですねぇ」と声をかけたところ「そういうと長いこと富士山を見てなかったなー」とつぶやかれ、びっくりした思い出があります。

「見れども見えず」という言葉がありますが、人の意識にないものは見ていても見えていないのだなということを実感した気分でした。よほど意識を明確にしておかないと、「見れども見えず」ということは、私たちの生活の中で日常茶飯事に頻繁に起こっているように思われます。

生まれつき盲目の人が、ある日突然目が見えるようになることがあるそうです。
その時見えているのは、まばゆいばかりの光の渦で、マルや四角などの形は一切わからないのだそうです。その人が認識してはじめて形が見えてくる、そのためには長時間を要するのだそうです。

ひょっとすると、意識にないものは存在しないのではないかとさえ思えてきます。
「外部」に存在すると思われている世界はすべて、人の内部すなわち共通の信念に支えられた幻想の枠組みの中にあり、人が直面している現実は、人が現実とみなしているものの総体であるという見方もうなずけるのではないでしょうか?

ある神話が多くの人たちによって共有されると、大きなエネルギーを獲得し、現実を生み出すようになるというわけです。現代社会は合理的精神に満ちていて、不合理なものは徹底的に排斥され、客観的な事実だけが真実の基準になって現在に至っているように見えます。

人々がアタマで考えて導き出した「合理」の枠組みからはみ出るものは「不合理」であるとして無視するのが現代社会の合理的精神といってよいと思います。

しかしいまや、合理的精神は人間に内在する意識進化のエネルギーのうねりを受けて衰退しつつあるように思われます。大激動時代を迎えているのです。