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バンクシアの響き

時代が急展開している今、
人間社会の新旧交代にまつわる出来事の本質をトータルヘルスデザイン 近藤洋一が考察します。

出会いの場


 もう50年くらい前のことになりますが、「日本人」と「ユダヤ人」のことについて書かれた本が大ヒットしたことがありました。その著書の中に、「日本人は隣百姓である」という表現が出てきたのが印象に残っています。
 隣百姓というのは、“隣の人が種を蒔くと、それにならって自分も種を蒔く”という日本人の行動パターンを意味していたように思います。
 これは「日本人にはビジョンがない。いつも隣近所のことを気にしていて、群れ合っている」という農耕民族・日本人の閉鎖的な行動パターンを指していて、実際のところその通りのように思われ、何となく嫌な感じがしたのを覚えています。
 「群れ合いの場」ということになりますが、と同時に“井戸端会議”という言葉が浮かんできます。近所の人同士、特にこれといった用事があるわけでもなく、何となく集まってお互い会話を楽しむという気楽な会合なのですが、こんな機会があるからこそ、お互いに気心が知れて、困ったことがあると融通し合うという“つながり”が生まれるのではないでしょうか?
 “群れ合いの場”は、いざというときには“お互いさま”の精神で、お互いにつながることによって破局を救うことのできる“つながりの場”でもあるわけです。
 その一方で、個人にしても社会にしても進化発展していくために必要なのは、群れ合うことではなくて、「出会いの場」を創造することだと言われていますが、その通りですね。
 「出会いの場」において、人と人が出会うということは「イノチ」と「イノチ」が出会うということでもあります。群れ合うこととは全く別次元のことで、そこに未来を切り開いていく大きな可能性が生まれることになります。

勝と西郷・出会いの場

 幕末のことです。徳川幕府は、日本を植民地にして支配しようとする欧米列強の言いなりになるような外交を繰り広げていました。このままでは日本が滅亡するという危機感を抱いて、徳川幕府を打倒するために立ちあがったのが、高杉晋作、坂本竜馬、西郷隆盛などの志士と言われる武士たちでした。
 「鳥羽伏見の戦い」に敗れた徳川幕府は、朝廷に「恭順する(朝廷に逆らうことなく、忠実に従う)」ことになったのですが、多くの幕臣たちは、これに反対し、あくまでも戦うという意思を固めていまし た。
 この時、徳川幕府の最高責任者に任命され、薩長連合軍(官軍)との交渉を一切任されたのが勝海舟でした。
 幕臣たちはあくまでも薩長連合軍(官軍)と戦うのだ、という主張を崩さないものですから、勝海舟は、どうしても戦うことになった場合を想定して、江戸の親方衆に自分の指示があり次第、江戸の町に火を放ち、火の海にするよう手筈をととのえました。
 進攻してくる官軍を火攻めにしようという驚天動地の戦術なのでした。
 勝海舟は、とことん追い詰められ決死の覚悟で、官軍・西郷隆盛との交渉に臨んだのです。
 勝海舟は、多くの幕臣が徹底的に戦うことを望んでいて「恭順」には絶対反対を叫んでいること、しかし自分は、同じ日本人同士がこれ以上対立し、内乱を引き起こすことは避けたいのだということを、西 郷に切々と訴えたのでした。
 そして自分としては、全力を尽くして「恭順」をやり抜くので、徳川家に対して、できる限り寛大な処置をお願いしたい、と訴えたのでした。
 勝海舟の言葉に心を打たれた西郷は、勝の誓いをすべて受け入れ、明日に予定されている江戸城総攻撃を中止することを決定したのです。
 日本人同士が争って、日本が西洋列強の植民地になることを避けるためにも、勝と西郷は、敵味方の関係を度外視して、心を一つにして江戸城総攻撃の中止を成功させたのでした。
 勝と西郷あればこその明治維新だったのですが、こんなこともありました。
 ―弾圧の手が、西郷と親しい尊王の志をもつ京都・清水寺の月照上人の身辺にも及んできたため、西郷は月照上人を薩摩に逃そうとしたのですが、徳川方の厳しい追及からかくまうことはできないと断じた西郷は、月照上人と二人で錦江湾に身を投げ、ともに死のうとしまし た。月照上人は亡くなったのですが、西郷は助けられ息を吹き返しました。
 この間、京都では、清水寺の寺侍・近藤正慎が幕府方に捕えられ、月照上人の行方を厳しく追及されました。しかし近藤正慎は月照上人の行方を白状せず、牢の壁で頭を打ち付け、そしてついには自分の舌を噛み切り、最期を遂げたのです。
 清水寺に行きますと、境内に近藤正慎のたぐいまれなる行動を記念して「舌切茶屋」として残っていて、茶屋が営まれています。

西郷さんの遺訓

以下、西郷さんの心に沁みる遺訓の一部をご紹介いたします。
・・・・道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。
  天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也。・・・・
・・・・人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを盡て人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。・・・・
・・・・人は道を行ふものゆゑ、道を踏むには上手下手も無く、出来ざる人も無し。
  故に只管ら道を行ひ道を楽み、若し艱難に逢うて之を凌んとならば、 弥弥道を行ひ道を楽む可し。・・・・
・・・・命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。
  此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり・・・
・・・・作略は平日致さぬものぞ。作略を以てやりたる事は、其迹を見れば善からざること判然にして、必ず悔い有る也。
  唯戦に臨みて作略無くばあるべからず。併し平日作略を用れば、戦に臨 みて作略は出来ぬものぞ。・・・・

   日本の独立を推進することのできない徳川幕府をなくして、天皇のもとに日本を統一し、生まれ変わるというのは、不可能ともいえる大事業でした。
 西郷と勝の「出会いの場」、そして二人の至誠があればこその明治維新だったのですね。

参考文献:
・内村鑑三「代表的日本人」(岩波書店)
・山田済斎編「西郷南洲遺訓」(岩波書店)
・岡田幹彦「西郷隆盛」(明成社)